天才柳沢きみお教授の生活

柳沢きみお先生が公開なさっている私生活をここにひとまとめしました。
参照文献は『翔んだカップル』全10巻(ワニブックス)巻末の「WRITERS VOICE」

『翔んだカップル』全13巻(講談社)巻末の「ベチ先生のひとりごと」

『自分史』全2巻(イースト・プレス)巻末のあとがき&ベチ先生のひとりごと




last update 2003.03.16


  教授は大変に規則正しい生活を送っていらっしゃいます。
  朝九時半に起き、十一時に仕事場に仕事場に行き、夜の十時半に帰宅。
  1日に平均15ページ前後お書きになります。
  風呂に入り、十一時半からこの世で一番好きなビールを大瓶3本飲みながらアイデアを練ったり新
  聞や車の本を読んだりして一時半頃に寝る。
  この時間は濡れ髪と湯上がりほてり顔で自室にこもり、家族にもじゃまをさせない。
  つまみはサラミとナッツが中心。
  最近は白赤ワインもビールの後に飲みます。
  教授は仕事がしやすい梅雨が好き。
  だから夜遊びは一切せず、誘われても全て断ってしまう付き合いの悪い人間に。
  ぶっつけ本番で原稿を一枚一枚描いているので仕事場ではアイデアを練ったりせず、ひたすらペン
  入れだけに専念。
  ジャズのアドリブ演奏と同じスタイルのため、気力と体力の充実を一番大切と考える。
  そのため、充分な睡眠と健康体の維持。
  朝の自己流柔軟体操はもう20年以上続けてて入浴前の2分の逆立ちときつめの腕立て伏せを50回。
 (後に60回に)
  2000メートルの水泳。
  クロール百メートルを三回、平泳ぎ百メートルを一回を挟み、クロール百メートルを六回、
  50メートルバタフライを10回(2回は全力、後は軽め)、クロール百メートルを五回。
  その後、加齢から4日おきに1600メートルの水泳に。
  クロール百メートルを三回、平泳ぎ百メートルを一回を挟み、クロール百メートルを  三回、
  そこからバタフライ五十メートル二回とクロール百メートルを交互に。

  *これも他人にはメチャ甘く自分にはとても厳しいと自己分析なさっている教授ならでは。

  新潟県五泉市の早出川で泳ぐ幼少期を過ごす。
  それから我流でバタフライができるまでに。
  ガットギターも17才から初めて独学で教本だけでクラシックは「アルハンブラ宮殿の想い出」
  クラスから
  ブルースギターのアドリブ、ボサノバ&サンバの天才ギタリスト・バーデンパウエルの曲までひき
  こなせ、
  当然譜面も読めるようになり、作曲も独学でできるようになり、ギター曲のオリジナルも何十曲も
  作成。
  自らを「並外れた努力家」であると同時に「人に何か教わるのが異常なほど嫌い」と分析する教授。
  人に道を聞くのも大嫌いで、人に聞けば5分で着ける目的地に1時間も迷って着くことも。
  それでもその方が気が楽な教授。
  勉強は大嫌いで予復習は全くしないがIQはクラスで一番高く、成績もトップクラスだった。

  物心ついたころから漫画家になることを決めていた教授ではあったが、
  現実を知らず美大を受けるも、実技で落ちて、和光大学芸術学科へ。

  上京して初めて原稿を持ち込んだのが集英社の『月刊少年ブック』の編集者。
  SFもので「宇宙戦艦ヤマト」そっくりのストーリー。
  教授は、ヤマト以前にヤマトのストーリーを作っていたのだ。
  そこで「君はむしろギャグ漫画に向いているのでは?」と言われ素直な教授は、
  ギャグ漫画を描く事を決意。
  しかし、ハタチの教授は当時の美大生の特権である長髪でパチンコ浸りの生活、、、。
  大学は1年のころしか行かなく、、、その理由は絵以外にも英語や一般教養や仏語があったから。
  絵だけ描いていれば良いと思った教授であった。
  大学に絶望感を持ったところで、漫画家がダメならデザイナーになろうと思うも、
  一部の天才を除いて暗くて地味で給料も安いことを知り、
  さらに仲の良い同級生の自殺もあり、大学は完全にボイコット。
  それがお父さまに知れてお父さまが東京に飛んで来た。
  気難しく怒りっぽいお父さまとはあまり話した事が無かった教授でしたが、
  片手にビールを持ちちっとも怒らずに穏やかな態度で来たお父さまは「そうか大学を中退して
  漫画家を目指すのも良いだろう」とあたたかい声をかけてくれました。
  想像もできないまるで別人のようなお父さまの態度に22才の教授は生まれて始めて父親の愛情
  というものを知りました。

  ハタチの頃の原稿持ち込みからギャグ漫画を描き始め、新人漫画賞に応募するようになり、
  21才のころ少年キングの新人賞でもう一息で佳作というグループに。
  そして次作を少年サンデーの新人賞の締め切り日に編集部に直接持ち込み。
  この作品が「デワタン一座」であります。
  その際、隣ビルの集英社にも同作品を見せに行き(『月刊少年ブック』がなくなり『週刊少年ジャ
  ンプ』に)、そこで「スターになれる!」と言われ、
  21才の教授はそこから続くドロ沼のような3年間があるとも知らず、ジャンプでの連載目指して
  夢心地だったのです。

  22才のころ、少年ジャンプの連載目指して編集部のS記者相手に持ち込みを始めた教授でしたが、
  「つまらんな〜、もう1回」と、もうそれは根性と気力だけの長い長い編集者との戦い(これで
  途中ダメになっていく人が多い)。
  そしてついにOKが出てすっかりプロ気分の教授だったが、その後に人気アンケートが待っていた。
  「ズンバラビン」全2回。
  2回のチャンスをもらったが、結果は2回とも最下位とほぼ最下位。
  1年間ジャンプに通い続けた結果がこれ、、、23才になった大学中退の教授は絶望感でいっぱい
  でした。
  さらに追い討ちをかけるように『月刊ジャンプ』への異動。
  これはプロ野球選手が1軍から2軍へ行くようなもの。
  大学受験の挫折とは比べ物にならない挫折感が教授を襲った。

  2軍落ちした教授はそれでもけなげにスーパーのバイトなどをやりながら原稿持ち込みを続けまし
  たが、それは失意の日々でした。
  編集部に行っても週刊の記者たちは知らんぷり。
  だけど、月刊の編集部の人たちがとても気さくで良い人ばかりだったので、それが随分と助け舟
  になりました。
  T記者もボス格のH記者も励ましてくれました。
  そうして年間に3〜4本の読みきりギャグを掲載してもらい、人気も最下位から上の方へ。
  ついに24才の頃「いい湯だな」の連載決定。
  すると、ゲンキンなもので週刊のS記者がまた声をかけて来て、漫画家のアシスタントになること
  を薦められ、その人の夜にタクシーで連れて行かれた。
  それが、師匠のとりかずよし先生。
  当時の教授の収入は、専属料として月2万。
  原稿料が最低額のページ2000円で月15ページの連載だから3万。
  週1のアシスタントが月3万。
  計8万円。
  生活は楽になったけど「いい湯だな」の人気はいっこうに上がらず、、、。

  「いい湯だな」で半年が過ぎたころ週刊の方でも『女だらけ』の連載が決定。
  それを期に1年務めたとりいかずよし先生のスタジオを辞め独立し、
  今度は教授御自身がアシスタントを2名かかえることに。
  人気投票と締め切りに追われた日々ではありましたが、人気は2位→7位→7位前後、、、
  という形で一年半。
  ちなみに、『女だらけ』の専属料は5万。
  月刊少年ジャンプの「いい湯だな」での連載も1年で打ち切り。
  この時のジャンプでの人気至上主義により、今でも(仕事場は大丈夫だが)自宅での電話恐怖症に。
  で、次の『温泉ボーイ』が見事に大失敗で、28才で限界を感じた。
  その失敗でヤケになったのと、ジャンプの人気至上主義に嫌気がさし、
  ジャンプで連載を成功させた漫画家としておそらく初の、自らジャンプとの契約を打ち切った。

  次ダメなら田舎に帰る覚悟でやめたところに運良く少年チャンピオンで『月とスッポン』を連載。
  当時の教授の最長作品。

  これで悔いの残らないように仕事場をボロボロのアパートからピカピカの貸しビルに移す。
  そして少年キングで『すくらんぶるエッグ』と少年マガジンで最大ヒット作『翔んだカップル』
  を連載。
  この素晴らしい時代が6年続くが、その後二度目の暗い時代に。
  絶頂の後のスランプだけにその反動はきつく重く大変辛いものだった。

  しかし、ネタ切れからこの3作品の打ち切りを自ら頼み、ホッと一息ついてマイペースで、
  と思っていたらこれが甘かった。
  『正平記』も並の人気で『朱に赤』も分かって描いてはいたが最低の人気。
  『月刊マガジン』で掲載したいきなり最下位。
  唯一安定漫画だったヤングマガジンでの『グッドガール』の人気も徐々に低下、、、。
  人気が急降下し、描く作品描く作品が全て不人気。   「今思えば、天狗になっていた」
  と回想する教授。
  一人前になってからの不人気に本当の限界を感じた34才の教授は、ついに観念した、、、。
  しかし3年周期で好不調の波が来る教授には、、、

  そこから苦しみながら少年ものから大人ものヘと移行していき、『瑠璃色ゼネレーション』
  『愛人』などの作品に。
  面白いかどうか自分では全く分からない闇の時代。
  なんとかそこで合格点をもらいその後『妻をめとらば』へ。
  アイデアに全く苦しまずスイスイ描けた、本当に楽しい作品で、打ち切り時は本当に悲しかった。
  その後、少年誌漫画を描かなくなってさびしくもあるが、何度かカムバックを試み失敗。
  またいつか復活を狙っている教授。
  好きな作品は『すくらんぶるエッグ』『月とスッポン』『妻をめとらば』等。
  作品は、教授自身がじっくりと楽しみながら描ける作品と、何が何だか分からないまま描いていて、
  終わったらその作品が何だったのかを知る作品に分かれる、という教授。
  『男の自画像』は後者に属し、今にして思うと「もっと丁寧に描いておけば、、、」
  と後悔している。
  37才になったころからプロの自覚が出て来た教授は、人気取りをしたい気がなくなり、
  描きたい作品を描いて1万部売れた方が媚びて100万部売れるよりも良いと判断し始めた。
  仕事というより趣味でやっているようなもので、無理して大ヒットさせるより小ヒットで良いから
  自分で楽しんで描く事を好みながら描いていくことにした。

  『翔んだカップル』を始めたきっかけは少年もののラブコメが無かったから。
  この作品を始める前は中の上クラスの漫画家で終わると思っていたがこの作品のおかげで
  1流になりました。
  で、また3年間で中の上へ。
  名前は1流かもしれませんが人気は中の上の教授に。
  で、他の人も真似して少年ラブコメを始めたのが嫌でヤケになって『翔んだカップル』を辞めて、
  その後反省して続編を。

  いずれ大人ものからも脱皮して○○○になりたい教授。
  (○○○とは何か?僕は小説家だと思っております。何かに書いてあったような?)

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